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2014年 第7回全日本最優秀ソムリエコンクールに挑戦して(1)
1.挑戦の始まり
2014年元旦、年明けと共に近所にある金王寺へ恒例の初詣。健康祈願と共に、毎年願いを込めるのは、「何かへの挑戦」であり、それは「今の自分を超えるための挑戦」だ。
「挑戦」、「勉強」「研鑽」どれも好きな言葉で、それを思ったり、考えたりするだけでいつもワクワクする。
やはり自分は、世間の中でもどちらかというと向上心が強い性分なのだろう。
この年は、3年に一度の「全日本最優秀ソムリエコンクール」が開催される年である。
レストランL‘ASがオープンしてから約2年。
店は当初からすぐに軌道に乗り、「日本で最も予約がとりづらいレストランの一つ」と、何度も何度も周りから自然に耳に入ってくるようにまでなっていた。
ありがたいことにほんとうに数多くの媒体にも取り上げていただいた。
実際に業績も好調の波は収まることはなかった。
「今年は、自分自身の目標にチャレンジするには、ちょうど良いタイミングだ。」
迷いはなかった。
前回開催されたのは3年前。
ワインスクールの専任講師という立場。
もはやソムリエではない自分には、出場資格すら与えられず、辞退を余儀なくされた。
その年の大会で、セミファイナルに名を連ねていたのは、過去、共に切磋琢磨した戦友達であり、元同僚の姿もあった。
「ソムリエ」という職業の第一線から退いていた自分には、彼らがあまりにも眩しく見えた。
2007年に開催された国内のソムリエコンクールで、奇跡の優勝。
翌年には、フランスへの研修旅行へと旅立ち、次の同大会での審査員も務めさせていただくという貴重な機会に恵まれた。
しかし、その後、行われた第1回 アジア・オセアニア最優秀ソムリエコンクールにエントリーするも、あえなく予選落ち。
筆記、テイスティング共に制裁を欠き、それまでの1年間、必死に努力するということから離れていた自分に猛省した。
まさに燃え尽き症候群。
そして天狗になっていた自分がそこにいたのだということが、その結果により眼前に現れた。
何とも言えない情けない気持ちになったことは、今でも憶えている。
その後、ワインスクール講師という素晴らしい天職と出会い、ここまで培ってきた自身の経験を、多くの方々に伝えるという魅力的な仕事に没頭することになるが、心の奥底に秘めた、闘志という小さな炎は、まだ完全に消えてはいなかった。
2.予選に向けて
予選は6月末。
それまでの半年間をどのように過ごすか。
当然ながら、それが突破への鍵を握っている。
「日本代表になって、世界一ソムリエを目指す」という高い志を持つ日本中のソムリエが、200名近くも集まるこの大会は、生半可な準備では、到底太刀打ちできないことは充分に分かっていた。
仕事に関しても、ホテルマンであった昔のように、充分な休みを取れるわけではなかった。
レストラン2店舗のシェフソムリエと、ワインスクールの講師を兼業している今、休みは取れて月に一日がやっとである。
昔以上に、自分自身のタイムマネジメントが非常に重要だ。ただこれに関しては、仕事や勉強で培ってきた経験から自信はあった。
まず取り組んだのは、2007年の大会時に準備した、自分のノートの見直しだ。
3センチほどになる分厚いバインダーのノートが、8冊。カテゴリーごとに、手書きでビッシリとまとめられている。これをまずは始めから読み返していき、残す情報を取捨選択していく。ある程度の新しい情報は、その都度追記してはきたものの、本格的に見直すのは、まさに6年程のブランクがある。気の遠くなるような膨大な作業が待っていた。
最新版の教本から始まり、世界の名酒事典、機関誌Sommelierの重要箇所をチェック、それをノートに追記、修正を重ねていく。
そして、ウイスキー、コーヒー、紅茶、ハーブティ、チーズ、スピリッツ、葉巻、日本酒、焼酎、カクテル、フランス料理、日本料理、、、それぞれの専門書に目を通し、それをさらにノートに反映させていく。
過去にまとめたノートがさらに分厚くなっていくのを実感した。
全てのページを数えるとしたら、ソムリエ教本何冊分になるのだろうか。
これを最終的には全て記憶して、当日を迎えなければならないことを思うと恐ろしくなった。表記は、常に原語での表記を心がける。
本戦はもちろん、おそらく予選からも、原語での表記を求められる可能性は十分に考えられるだろう。
まとめたノートを読み返しながら、何度も何度も、白い紙に書きなぐって、記憶に刻み込んでいった。
予選まで、あと約1ヵ月と迫った頃。
レストランの仕事も講師としての仕事もありがたいことに、順風満帆。それだけに多くのやるべきことに追われていた。
数えてみると、予選当日まで、まる一日休める日は皆無。当日までの39日間は、どうやら一刻も休まる暇もないと、本気で覚悟を決めなければならなくなった。
しかしこの事実を言い訳にはできない。まさにこの、「コンクールに向けての環境づくり」も大切な準備の一つであり、それも含めて実力だからだ。
「挑戦すると決めた以上は、一切の言い訳はしない。」この言葉は、何年にも渡り毎年、ソムリエ試験を受験するスクールの受講生にも言い続けてきたことであり、まさか自分自身が言い訳をすることなんか、ありえないことである。
現に環境は、けして悪くない。
いや、むしろ恵まれていた。L‘ASのオーナーシェフである兼子は、2008年に、私がソムリエコンクールの副賞で、フランス パリに渡り、二つ星レストランで研修をしていた時に知り合った仲であり、今回のソムリエコンクール挑戦を応援してくれている人物の中でも、最も理解をしてくれている一人であった。
通常、私の出勤時間は午後からで、ランチ営業もないことから、朝から昼間にかけての時間は、自由に使うことができる。デスクワークやワインインポーターとの電話やメールでのやりとりもあるが、やるべき仕事を早く済ませることさえできれば、残りの時間を勉強に充てることが可能だ。
そして、終業後には、定期的に兼子シェフからブラインドテイスティングの出題もあり、予選に向けて勉強できる機会を可能な限り作ってもらえた。
まる1日の休みは取れなくても、1日の中での勉強時間は、朝の9時から12時、そして帰宅後の深夜2時から3時半までと、毎日約4時間30分、充分に捻出することができていた。
予選まで残り2週間。
順調かに見えたが、突然の体調不良が襲う。
一日中目眩が続き、もはや勉強どころではなかった。
微熱はあるものの、風邪の症状はない。
もちろん仕事は休めない中で、この症状は治まらない。
仕事が終わる頃には、立ちくらみが毎日のように続き、薬や栄養剤では、対処できないところまできていた。
診断結果は、「過労」。
噂には聞いたことがあるが、まさかここにきて自分がそれになるとは、夢にも思っていなかった。
「体調管理は最も大事な準備」この事は、過去の受験クラスの受講生に何度も訴えてきたことだ。しかし、いざ自分自身のこととなるとできていなかった。
情けない。
仕事以外の時間は、全て勉強。
これが数か月も繰り返されている。
シェフソムリエという立場、ワインスクール講師という立場、過去のコンクール優勝者という立場、まさか予選落ちなどありえない。
絶対に負けられない戦い。。。もはや身体は悲鳴をあげていた。
3.予選開始
当日は、とても清々しい朝だった。
東京会場は目黒の雅叙園。
早めに到着すると、たくさんの同志との再会があり、リラックスすることができた。
体調は、これまでが嘘だったかのように快調だった。
数日間勉強できていなかったものの、これまでにまとめたノートは、何度も繰り返し記憶したつもりだ。
自作の問題集は、1,000問を数え、これも何度も何度も繰り返し読み込んでいた。
テイスティングは、お店のワインをセレクトする度に、それを10分間で、日本語、もしくは、フランス語でコメントを記述するトレーニングを積んでいた。
そしてワインスクールで、毎週コメント、解説をしている経験も良い準備の一つとなったと感じている。
この時点で、もはや言い訳はない。
良いことも悪いことも含めて、この半年間、ベストは尽くした。あとは全てを出し切るのみ。
まずは筆記試験60分間。
回答数は300くらいはあるだろうか、分厚い問題冊子にびっしりと問題が並んでいる。見ていくと日本語の問題と、外国語の問題が交互に並んでいる。それぞれの出題言語での解答が必要だということだ。
かなりの難問の連続だが、自分で作って繰り返し解いていた問題と重複するものもいくつかある。分かる問題を探しながら解いていき、常にペンが止まらないように心がけた。
「リアス・バイシャスのサブゾーンを5つ全て原語で記しなさい。(実際の問題は、外国語表記での出題)」これが自分の中では、簡単に感じるほどの超難問が続いた。
周りには、うつぶせになる者、天を仰ぐ者が多数いたようだ。
しかし、自分は60分間ペンを止めることはなかった。
そして、続くテイスティング。
最初のアイテムは、10分間でA4用紙いっぱいにフルコメントを記述。
そしてその後、数種のワインとその他のお酒を結論部分のみ解答していく。
あっという間の時間だったが、しっかりと分析した後に、結論を記述し、時間ぎりぎりだったが、全ての答えを出すことができた。
これで終わった。。。あとは結果を待つのみだ。